カタカナ語多用のいわゆる「意識高い系」は槍玉に挙げられがちだが、漢語は漢語で人文科学界の権威語彙群を形成している。哲学界・法曹界等々。
和語は和語で「よりそう」とか「まなび」とか庶民派気取る政治家が使いそうで嫌だ。ちなみに、キリスト教の特にプロテスタントも古風な和語を使いがちである。
立ち上がる、寄り添う、受け止める、あかし。
また、和語だから「やさしい日本語」には必ずしもならない。台を「うてな」と言って誰が理解するだろう。
剔抉と「エビデンス」 どっちがエラそうか
剔抉とエビデンス、どちらが「エラそう」だろうか。どちらがより自分を大きくみせようとしているか。
(余談「エラい」というのは、元々は「とても」くらいの意味しかなかった。関西では今でもその意味でも使う)
具体的には説明できないが「剔抉」の方がエラそうだろう。しかし、漢語は西欧語よりも千二百年ほど前から日本に到着している。その差である。その差しかない。
また、英語はラテン語やギリシャ語、中国語、アラビア語などと違い古典言語ではない。その事情もいわゆるカタカナ穎悟にある種の軽薄さを付与している。
外来語が使われやすい業界
明確に、外来語が使われやすい業界というのは存在する。IT業界がそうである。現代ファッション業界もそうだろう。大雑把だが、ビジネス界隈もそうである。
ズボンをわざわざパンツと言ったりするのは、同じ品物でもあたかも異なる品物かのように消費者を錯覚させるためである。あの手この手で彼らは言葉を入れ替える。それは企業努力である。
断言するが、小池百合子及び日本政府はコロナ禍の時期、意図的に外来語を濫用した。今は少々なりはひそめたが。
オーバーシュートと言われても、日本人のあたまに浮かぶのはオーバーヘッドキックである。あるいは俗に言う宇宙開発。ロックダウンもわからない。
小池百合子その他がとった戦略は、意味を国民にわからなくさせることである。実際に何がどうなっているのか明かさない戦略。彼らは賢い。
国語政策の不在
日本には、フランス語強化委員会にあたる存在がない。英語だろうと漢語だろうと政府は野放しである。常用漢字表はあるが、それは制限でしかない。
韓国よりも日本の方が外来語の使用頻度が高いのは、国を挙げて国語を保護しているかどうかも勿論影響している。
個人的には、政府に特定の語を使え使うなと指示されるのは嫌なので、フランス語強化委員会のようなものは不要であると言いたい。そもそも、日本の法律上公用語は制定されていない。
コスプレ、エログロ、スキンシップ、これらは和製英語・和製外来語として世界に広まった言葉である。言語純血政策が取られていれば生まれなかったろう。
外来語規制は本質的に表現規制・言論弾圧である。忘れがちだが、常用漢字表も表現規制である。マスコミがなぜ従順に政府が設けた基準に従っているのかよくわからない……。
ちなみに、常用漢字表に違反したからと言って逮捕はされない。あくまでも公文書の指針である。
いわゆる古い漢語 ベトナムと韓国
日本人は、韓国語やベトナム語を勉強したときに、「古い漢語が沢山ある」と、往々にしてそんな感想を抱く。
しかし、これは半分正しいが半分間違っている。日本語にもそれなりに古い漢語が満載されているからだ。
例示するとキリがないので程々にするが、綺麗、天気、上手、微塵、快適、開陳、等々。これらは古い漢語で、且つ日本以外ではほとんど使われない語群である。
また、「古い漢語」だからわかりにくいワケではない。天下、勿論、不足、等々、これらは古い漢語だが皆わかる。
官製和語そして権威語群
官製和語、正確には「官公庁が好んで使う和語」「官公庁によって色付けされてしまった和語」。ものづくり、まちづくり、まなび。
和語は民衆のものである。少なくとも、明治維新以降はそうだ。お上は漢語調の文章で法律やら法令やらを国民に通達した。
(私は、日本人及び日本語は、明治維新後とそれ以前で二分できると考える)
昭和末期・平成以降、その官公庁は慣例を破り積極的に和語を使うようになった。あまり好きではない。
「ものづくり」「製造業」……。意味は同じである。あるいは、同じである筈である。しかし何かが違う。
日本人にとって、無論沢山例外はあるが、和語はイメージ喚起力が強いのだ。コウサツよりも「しめころす」の方が現実味が想起されやすい。
(反対に、尾籠ビロウという言葉は人前での会話が憚られる話題に関して、無理やり擬似漢語を作って対応させた。語素分解されえない殆ど記号のような語)
権威語群、書き言葉、文章語。
附言するが、和語であることと口語的であることとはイコールではない。
(例 〜辺ヘン は国会で政治家は使えぬが、〜あたり なら使える)
和語にも高級語彙(≒公文書などで規範的に選択される語彙)はあり、官公庁は日本語の日常語彙を高級語彙化させつつある。それは、日本語の変化である。極論に基づく仮説だが、このまま行けば将来の日本(人)は、政府は和語のみの純化された日本語で法令をつくり、民衆は和漢混淆語を話しているかも知れない。