考察するヒソト

元々ワードプレスでやっていました。執筆に集中したいので移行。色々考えます。

Presidentの訳語として、大統領も総統も不適切な件

日本と韓国は英語President の訳語として大統領(大+統領)、中国と台湾、ベトナムでは総統を使っている(らしい)。また別に主席という語もあるが、これは(自称)社会主義国限定。


結論から言うが、President の訳語として統領と総統は両方良くない。二つとも軍事色が強すぎる。

 

ちなみに、President の原義は先方に座る人である。


統領、日本のオンライン辞書では「人をまとめる人」とあるが、中国では古い官名であり、武官の名称の一つであった。


総統(總統)も、中国では武官に付けられた呼称である(あった)。

(朝鮮王朝実録だと、統領も出てくる)


対して、Presidentは議長社長大統領総統、何かの組織の長を指す言葉である。原義的には、chairman と似ている。※preside  〜前に座る


Presidentを原義の意味合い通り、坐長だとか単に長と訳した世界線はあったかも知れない。夢想するしかないのだが。

「言語の習得難易度について」覚え書きー実際、英語は難しい

①英語の難易度は測定不可能である
英語とスペイン語に関して、日本人にとっては同じくらいの難易度、発音の面でスペイン語の方が日本人にとっては易しいので、どちらかと言えばスペイン語の方が日本語母語話者にとっては簡単である。


しかしながら、日本人は中高で六年間英語教育を施されており、高卒・大卒の人間が同じくらいの没入具合で英語またはスペイン語の勉強を始めれば、確実に英語の方が習熟速度は速くなる。


英語は本当は難しい言語なのだ。世界中の皆がそれを忘れている。


(アフリカなどだと公用語がフランス語の地域がある。ここらの地域もフランス語の難易度は測定が正確にできない)

②コンテンツ量の多さ テキストの多様性 接触のしやすさ
ハンガリー語と英語では、日本人にとっては難易度は同じくらいか、むしろハンガリー語の方が簡単な言語である。しかし、教科書の多寡・多様性、または学習環境の面において、英語はハンガリー語を学びやすさの点において圧倒している。


ハンガリー語スペイン語を比較してもそうである。スペイン語を学びたければインターネットを彷徨すれば良い。いくらでも良質なテキストを散見できる。


ハンガリー語を学びたければ、現状教科書を買うか、語学教室に通うかしかない。無料の情報が少なすぎる。

(英語ができれば、インターネットでも無料のハンガリー語講座を発見できる。母国語で外国語を勉強した方が理解は深まりやすいのだが……)

③英語との近さ
フランス語とスペイン語、ドイツ語など、印欧語族の特にヨーロッパ圏の言語は、英語との近さ故に本来の難易度が計測できなくなっている。


英語はラテン由来の語彙を豊富に取り入れたゲルマン系の言語であり、英語母語話者にとってスペイン語やフランス語の習得は日本語ほどむつかしくない。そして、中高六年間で英語わまなんでしまった日本語も、その英語の特性の恩恵にあずかる。

(他のゲルマン系の言語に関しても同じことが言える)

まとめ
当たり前だが、外国語の難しさは母語に強く依存する。日本語は英語母語話者にとっては難しいが、韓国人にとっては世界一簡単な言語で、中国人にとっても英語より遥かに習得がたやすい。それすら分かっていない連中が、「日本語は世界一難しい」と意味不明な悦に浸るサマを見る。怖気が立つ。

 

 

MMORPG「TRAHA」が失敗した理由考察

TRAHA は失敗したMMORPGである。経済的にはある程度成功したかも知れないが、コンテンツ・娯楽としては完全に落第生である。サ終もアナウンスされた。実際、韓国版のトラハはとうの昔にサービスを終了している。


なぜトラハが失敗したのか。駄目駄目なのか。理由をいくつか挙げる。

1.シナリオがつまらない 
やったこともないのに高評価することに躊躇を覚えるが、原神のシナリオは賛辞を受けている。仄聞する限り、少なくともシナリオを楽しんでいる人は一定数以上存在するようだ。


対して、トラハのシナリオ・ストーリー・背景話なぞ誰も記憶していない。ヴァルカンとナイアドの因縁が先王時代から云々以上の記憶が私にはない。


JRPGの表面を掬ったような与太話が延々続くだけである。

2.対人戦 PvPコンテンツがつまらない
進撃戦と闘技場はまだ面白いが、殲滅進撃戦・ギルド進撃戦、戦場は本当につまらない。


殲滅進撃戦とギルド進撃戦に於いて、プレイヤー陣は三体のボスを倒さねばならぬのだが、そこに何の仕掛けもない。通常のフィールドボスと同じである。しかも、全く同じである。ギルド単位なのか個人単位なのかの違いのみ。


戦場はトラハサービス開始当初からあるコンテンツだが、大将を守るだとか攻めるだとかの駆け引きはなく、真ん中の空間で殴り合うだけの代物に成り下がった。かつては遅延行為による勝利も見られたが、流石に運営も問題視したのか仕様上できなくなった。


領地戦は個人的にはそれほど低評価ではないが、それにしても同じフィールドをぐるぐる回るだけのコンテンツである。

3.日課(デイリーコンテンツ)が多すぎる
毎日のログインボーナスは、MMORPGに限らずネットゲームには必ずと言って良いほど実装されているが、それ以外の日課が多すぎる。


パーティダンジョン・ソロダンジョン、日課ではなく週二回だがデスマッチや攻撃隊。全部作業でしかない。


勿論、作業ゲーなのは他のMMORPGもそうなのだが、それにしたってやることが多すぎる。いつのまにか機会損失(経済的な損は実質ないにも拘らず)回避のため、強迫観念的に毎日ログインすることになる。

4.PvPがしんどい
トラハは比較的実践的なMMORPGである。紛争地と平和地に別れ、平和地ではプレイヤーキルが発生しないが、サイドクエストなどの条件は紛争地帯の方が1.5倍ほど効率が良い。


また、フィールドボスなど紛争地帯を避け得ぬ地帯もあり、平和にゲームをしたい人には推薦できないゲームである。


最初は楽しいかも知れないが、PvPというのはトラハにおいて基本的に我慢比べである。五分じっとさえしていれば、ペナルティなく復活できる。暇人に勝てないのだ。

5.課金者を優遇しきれていない まとめ
意外に思われるかもしれないが、私は重課金者は過剰なほどに優遇されるべきだと思っている。彼らのおかげで開発費やらサーバー代やらが賄われているのだから当然だろう。サンドバッグになるのも感謝するべきなのだ。本当なら。仕組みをわかっているなら。お金の源泉をわかっているのなら。


トラハは重課金者も微課金者も大して差が出ないゲームだ。無課金とはさすがに差が出るが、それにしても最近は毎日続けるだけで無課金はそれなりに強くなれる。


重課金者・廃人と呼ばれる人たちの多くがトラハを去った。彼らは今どこで何をやっているのだろう……。

 

中世和語派と和語日常語(日用語派)

以前、「やさしい日本語」に関して記事を書いた。それと連続する会話である。端的に言えば、「和語」を二種類に分けて考えてみようという話である。概念の提唱である。

和語 日常語

まなび 気づき(混種語だが 名誉和語?)よりそう むきあう、日常語語彙の和語を意識的に、美意識を持って積極的に活用しようとする人達は、かなりの数で存在する。

 

偏見かもしれないが、政治家は近年(普段使いの)和語を好選して使用している印象がある。庶民であることの”訴えかけ”である。

 

糸井重里のような人も、和語を好む人である。というより、権威を感じさせる漢語を意図的に避けている。そこには美学がある。

 

但し、特に「立ち現れ」などの造語・厳密な定義を用いて和語を用いようとすると、平易さは消える。

和語 古語派

客キャク を まれびと 、服フク を ころも と呼ぼう。国学派の右翼にはそう主張する人もいる。彼らは、糸井重里とは違う。

 

「ころもがえ」など複合語に残ってはいるが、通常、日本人は clothをフクと呼ぶ。わざわざ戻すためには、「庶民派」の立脚点ではない立場から主張する必要がある。

 

ウルトラナショナリズム、和語復古派などと評せるだろう。

 

夢という単語には、「寝ている時に見る夢」と「将来の夢」の二つの意味がある。また、ところ には 場所 そして形式名詞としての用法もある。前者は英語の影響で、後者は中国語の影響だ。こういったものをどう処理するか、和語復古派の人が身辺にいれば聞きたいのだが……。

まとめ 

和語だからわかりやすいわけではない。が、しかし、「風景」「景色」よりも「みえるところ」が外国人にとってわかりやすいのは確かである。雅馴ならざるともそうだ。それは、purchase よりも buy 、surveillance よりも lookの方がわかりやすいのと同じ。但し、beautifulではなく sheen(ゲルマン語由来)の方がわかりやすいわけではない。

和語≒「やさしい日本語」

「やさしい日本語? 和語で言うんやな?」

 

→ まろうど が きたから 共(とも)に 昼餉(ひるげ)を たべました まろうどは 昼餉を とても こころにかない 三つ装い も たべました わたしは すこし 憂え(うれえ)ていましたが まことに よかったです 

 

これは、やさしい日本語だろうか。そもそも、easyの意で やさしい(易) と言う機会は、口頭ならまず存在しない。小さな子どもでも、easyは簡単という。やさしい は、口語ならkind,kindlyである。

(多分、優しい と 易しい の、ダブルミーニング 掛けことばなのだろうが)

 

上述の文を実際の、外国人(≒日本語初学者……『やさしい日本語』なら初級者)にとって やさしい日本語に変換すると

 

お客さんが きたから 一緒に お昼ご飯を 食べました。お客さんは お昼ご飯 を とても 気に入り 三杯 も 食べました わたしは ちょっと 心配していましたが 本当に よかったです

 

こうなるだろう。勿論、振り仮名を併記して。和語≒日常語である。教科書の日本語 あるいは 日常頻出語が「やさしい日本語」と呼ばれるべきだろう。

 

言い換える能力

悲しいのは、学がないと何が話し言葉で何が書き言葉なのか瞬時に判断できないことである。あるいは言い換えができない。

 

景色(ケシキ)が外国人に伝わらなければ、風景と言い、それもダメなら みえるところ と言えばいい。

 

私は一度、日本のYouTuberが外国人に対して 光源 なる単語をなんの説明なく使用している場面を見たことがある。光源が日常語彙でないと判断を事前にくだせないのだ。

 

(思うまま、心の赴くまま話すまえに、語彙が日用語であるか考えながら喋る技術は特殊技能なのだろうか? 私はそうは思わない)

漢字文化圏か否か

「厳禁」と「しないで!」は、漢字文化圏の人たちにとって、前者が「やさしい日本語」である。

 

韓国とベトナムは漢字を書紀体系から追放したが、漢字が全くわからないわけではなく、また韓国は漢字教育がある。ベトナム人にしても、漢字の教育は公教育からは消えても、日本に来るような人は間違いなく漢字の勉強をしている。

 

無論、日本にわざわざ来るような人はある程度日本語を本国で勉強したか、それがなくとも日本で学校に通っているハズなので、「しないで」「しないでください」が分からないことはないのだが、漢字文化圏の人だと「人民ジンミン」は知っていても「民たみ」が分からないという事態は発生しうる。

 

「やさしい日本語」は、非漢字文化圏にとってのものと、漢字文化圏にとってのもの。ふた通りあると想定した方が良いだろう。

和語よりも漢語の方が日常語である事例群

漢語は外来語の範疇に入らないが、本質的には外来語である。外国語である。

 

長らく漢文及び変体漢文は日本の公式文書であったがゆえに、漢語(漢日語・漢日詞)は文書語であり、口語ではなかった。しかし、中国語及び漢字が日本でもちいられるようになって千年ほど経つと、反対に和語の方が文語的な事例も散見されるようになる。それらの例をここで示す。

 

  • ひねもす(ひもすがら)

口語では 一日中 あるいは 終日である。日常会話で ひねもす或いは ひもすがら と聞いたことがない。小説・文学作品でしか見ない。それも終日の上にルビ付きで。

  • おのれ 

おのれ あるいは おのれの よりも、自分の方が口語では優位である。しかし、ひねもす と違い口語でも問題なく使用できる。但し「おのれ」は感嘆詞としても用いられる語なので、女性は使いにくいか。

  • ともに 

一緒に、が優位である。「ともに」は少しかしこまった印象を与える。「一緒にレストランに行こう」と友人には言えるが、「ともにレストランに行こう」と言うと笑われるだろう。

  • およそ (おおよそ)

大体、大概、大抵が優位である。但し大体と

大概に関しては副詞的にも口語では用いられる。一往、大牴 も「大抵にしろ」と使えるそうだが、私は聞いたことがない。「大概にしろ」はよく聞く。

  • うつくしい 
  • きよい 

うつくしい と きよい は、綺麗に統合されてしまった。なんでもかんでも「やばい」と表現する人らを揶揄する人は少なくないが、beautifulとcleanを一語にまとめてしまう「綺麗」もどうかと思う。

  • みやび

都会的 あるいは上品 が優位である。文学作品・詩に限って偶に見る語。

  • このかた

以来イライが優位。江戸時代までは 以来の上に このかた と熟字訓で理解していたようだが、いつのまにか逆転した。

  • つまるところ さしずめ

結局 が用いられる。しかし、和語である つまり は結局と同頻度で用いられるため、漢語が優位になったとは言えないだろう。

  • やさしい(易しい)

Easyの意で やさしい は、完全な文書語である。口語ではやさしいはkindになる。簡単と言わねばeasyの意だと理解されにくいだろう。

  • あししげく

頻繁に が主に用いられる。私見だが、あししげく は具体的な動作が語に含まれているゆえ、ほんとうに足を使って通っている際に用いられる印象がある。

  • まことに

本当 あるいは 無作から転じた めっちゃ が口語では使われる。関西だと本真(ホンま)なる混種語が使用されるが、全国区のめっちゃと違い、ホンま は依然として関西方言。

  • ひときわ ひとしお

一層 の方が使用頻度が高い。ひときわ も 一層も類似した意味のハズだが、ひときわ は身長に対して使われる印象がある。ひとしお に関しては、一段あるいは一層が優位である。

  • このよ よ

世界セカイ の語が圧倒している。よ(世界の意での)は このよ あのよ うきよ と主に用いられる。世界なる仏教由来のコトバがここまで普及したのは興味深い。

  • みまかる 

死 という漢語なのか和語なのか判然としないコトバがある。音読みはシ 訓読みは し(ぬ)。おそらく、かつての日本人は きえる や けす かえる などで人の死を表現していたのだろう。死という概念は中国由来である。

  • さかさま さかさ

逆ギャク が優位。逆ギャクは本来 逆風など方向的に反対から来るベクトル込みでの概念だったのだが、現代の日本語の口語では単に反対の意。反対よりも短いからだろう。

  • おおく

沢山 なる明治以前に発生した和製漢語が優位である。おおく は少しかしこまっている。日本語に於いて、沢は潤沢・沢山・贅沢 など、数量が多いことを示す付属語として用いられる。

  • みちる 

満タン(満タンク)という漢語と英語の混種語が口語では使われる。みちみちている を口語で使うのは、よほどその語を使いたいときである。

  • しし 

肉ニクに駆逐された語。もしかすると しし は肉類全般には使えない単語だったのかも知れない。あるいは イノシシ  と混同を無意識に避けた結果。

  • かはひらこ 

蝶チョウになぜだか変わってしまった。古代の発音だとカパピラコ。響きは個人的には好きだ。

 

  • まったく

全然ゼンゼン という中国語においては少し書面語的な表現(らしい)がいつのまにか膾炙した。自然シゼンという語の影響と考えられる。

 

  • むしろ

席セキは音読みであり、訓読みではない。しかし、むしろ はおそらく平たい敷物に限定してしか使えない語だったようだ。そのため、より範囲の広いセキなる語が広がった。太平記にも坐席ザセキなる語がみつかる。 

 

  • かき

柵サクは漢語である。しかし、馬うま と同じく、古代漢語の可能性もある。偶然の一致かも知れぬ。よう と様ヨウ み と味ミ のような。

まとめ

ほかにも 台風タイフウ 野分のわき など、枚挙することはできるが、今回はここで終わる。

 

また、一々イチイチ と 一つ一つ(ひとつひとつ)など、漢語と和語で含意が違う語も沢山あるが、そこまでは網羅せずに終えます。

【概括】和語・漢語・外来語【雑談】

カタカナ語多用のいわゆる「意識高い系」は槍玉に挙げられがちだが、漢語は漢語で人文科学界の権威語彙群を形成している。哲学界・法曹界等々。

 

和語は和語で「よりそう」とか「まなび」とか庶民派気取る政治家が使いそうで嫌だ。ちなみに、キリスト教の特にプロテスタントも古風な和語を使いがちである。

 

立ち上がる、寄り添う、受け止める、あかし。

 

また、和語だから「やさしい日本語」には必ずしもならない。台を「うてな」と言って誰が理解するだろう。

剔抉と「エビデンス」 どっちがエラそうか 

剔抉エビデンス、どちらが「エラそう」だろうか。どちらがより自分を大きくみせようとしているか。

 

(余談「エラい」というのは、元々は「とても」くらいの意味しかなかった。関西では今でもその意味でも使う)

 

具体的には説明できないが「剔抉」の方がエラそうだろう。しかし、漢語は西欧語よりも千二百年ほど前から日本に到着している。その差である。その差しかない。

 

また、英語はラテン語ギリシャ語、中国語、アラビア語などと違い古典言語ではない。その事情もいわゆるカタカナ穎悟にある種の軽薄さを付与している。

外来語が使われやすい業界

明確に、外来語が使われやすい業界というのは存在する。IT業界がそうである。現代ファッション業界もそうだろう。大雑把だが、ビジネス界隈もそうである。

 

ズボンをわざわざパンツと言ったりするのは、同じ品物でもあたかも異なる品物かのように消費者を錯覚させるためである。あの手この手で彼らは言葉を入れ替える。それは企業努力である。

 

小池百合子の外来語

断言するが、小池百合子及び日本政府はコロナ禍の時期、意図的に外来語を濫用した。今は少々なりはひそめたが。

 

オーバーシュートと言われても、日本人のあたまに浮かぶのはオーバーヘッドキックである。あるいは俗に言う宇宙開発。ロックダウンもわからない。

 

小池百合子その他がとった戦略は、意味を国民にわからなくさせることである。実際に何がどうなっているのか明かさない戦略。彼らは賢い。

国語政策の不在

日本には、フランス語強化委員会にあたる存在がない。英語だろうと漢語だろうと政府は野放しである。常用漢字表はあるが、それは制限でしかない。

 

韓国よりも日本の方が外来語の使用頻度が高いのは、国を挙げて国語を保護しているかどうかも勿論影響している。

 

個人的には、政府に特定の語を使え使うなと指示されるのは嫌なので、フランス語強化委員会のようなものは不要であると言いたい。そもそも、日本の法律上公用語は制定されていない。

 

コスプレ、エログロ、スキンシップ、これらは和製英語・和製外来語として世界に広まった言葉である。言語純血政策が取られていれば生まれなかったろう。

 

外来語規制は本質的に表現規制言論弾圧である。忘れがちだが、常用漢字表表現規制である。マスコミがなぜ従順に政府が設けた基準に従っているのかよくわからない……。

 

ちなみに、常用漢字表に違反したからと言って逮捕はされない。あくまでも公文書の指針である。

いわゆる古い漢語 ベトナムと韓国

日本人は、韓国語やベトナム語を勉強したときに、「古い漢語が沢山ある」と、往々にしてそんな感想を抱く。

 

しかし、これは半分正しいが半分間違っている。日本語にもそれなりに古い漢語が満載されているからだ。

 

例示するとキリがないので程々にするが、綺麗、天気、上手、微塵、快適、開陳、等々。これらは古い漢語で、且つ日本以外ではほとんど使われない語群である。

 

また、「古い漢語」だからわかりにくいワケではない。天下、勿論、不足、等々、これらは古い漢語だが皆わかる。

官製和語そして権威語群 

官製和語、正確には「官公庁が好んで使う和語」「官公庁によって色付けされてしまった和語」。ものづくりまちづくりまなび

 

和語は民衆のものである。少なくとも、明治維新以降はそうだ。お上は漢語調の文章で法律やら法令やらを国民に通達した。

(私は、日本人及び日本語は、明治維新後とそれ以前で二分できると考える)

 

昭和末期・平成以降、その官公庁は慣例を破り積極的に和語を使うようになった。あまり好きではない。

 

「ものづくり」「製造業」……。意味は同じである。あるいは、同じである筈である。しかし何かが違う。

 

日本人にとって、無論沢山例外はあるが、和語はイメージ喚起力が強いのだ。コウサツよりも「しめころす」の方が現実味が想起されやすい。

(反対に、尾籠ビロウという言葉は人前での会話が憚られる話題に関して、無理やり擬似漢語を作って対応させた。語素分解されえない殆ど記号のような語)

 

権威語群、書き言葉、文章語。

 

附言するが、和語であることと口語的であることとはイコールではない。

(例 〜辺ヘン は国会で政治家は使えぬが、〜あたり なら使える)

 

和語にも高級語彙(≒公文書などで規範的に選択される語彙)はあり、官公庁は日本語の日常語彙を高級語彙化させつつある。それは、日本語の変化である。極論に基づく仮説だが、このまま行けば将来の日本(人)は、政府は和語のみの純化された日本語で法令をつくり、民衆は和漢混淆語を話しているかも知れない。