考察するヒソト

元々ワードプレスでやっていました。執筆に集中したいので移行。色々考えます。

(あまり指摘されない)日本語の難しい点

漢字の読みの多さ、音読みと訓読みの双立、助詞「は」「が」の使い分けなど、日本語の難しさとして挙げられやすい点の解説は他の人に頼むとして、日本語の難しい点としてあまり挙げられない実際には難しい点を三つご紹介する。

1.自動詞と他動詞の不規則性
「ひらく」は他動詞で、「あく」は自動詞。「かかる」は他動詞で、かけるが「自動詞」。ある程度は活用が分類可能だが、例外が多すぎる。というより、規則性が見出せない。


この辺りは私が詳しく活用するより、日本語 自動詞 他動詞で検索して頂いた方がいいだろう。


2.同音異義語の多さ

「きしょう」だとか「かいせい」だとか、その音だけで意味がはっきりしない言葉が多すぎる。日本語は、疑いななしに同音異義語に関しては世界一である。


これは、元々声調付きの中国語を日本に導入する際に声調が抜け落ちたこと、「くゎ」などが全て「か」に収斂したことなどが原因である。アクセントで多少は区別されているが、徹底はしていない。


端的に言えば、現代日本語は文字を話す言語になっており、書読みが嫌いな人は上達が難しい。


3.「つ」「りゃ」「りゅ」「りょ」

「標準的な言語」などと言うものはないが、英語のthの子音、ベトナム語の六種類もの声調など、世界的に珍しいと言われる要素は言語から抜き出せる(声調自体は珍しくない。アフリカにもあるし、アクセントもある種の声調である。英語にしたって、to と too では声調?が違う)


「つ」は韓国の人は「ちゅ」になりがちだし、英語圏の人は「す」と間違えやすい。真偽は不明だが、スリランカの人も苦手だそうだ。


りゃりゅりょ も、じゃ行や や行 になりがちである。そもそも発音が難しい。

まとめ
日本語というのは、音声的にはスワヒリ語オーストロネシア語族の開音節系の言語であり、文法的には韓国語やモンゴル語トルコ語と似通っており、語彙は和語と漢語ときとぎ欧米(近頃は特に英語)である。


実証の過程を経て証明はできないが、日本語は聞いて理解することも話すことも読むことも難しくはない。書くときだけ難しい。主に助詞のせいで。

 

私選 字やら使う漢字が中国語っぽい日本語

中国語の勉強を始めてしばらくたった。まだまだ話せるように、聴解できるようにはなっていないが、なんとか読めるようにはなってきている。


そこで(?)、中国語っぽい日本語を、中国語の中国語らしさを感じる言葉をいくつか私選してご紹介する。なぜ? 理由は特にはない。


好好爺 コウコウヤ


そもそもが、誰かが雰囲気のいい柔和なおじさん・おじいさんのことを好好爺と中国語風に表現したのが始まりなのだから、中国語っぽいのは当然だろう。ちなみに、中国語にこの定型表現はない。好爷はたまにある。


喫食 キッショク

少し日本語だと固い表現だが、中国だと食べ物を意味する口語らしい。喫食を‪吃食‬(喫=吃)とすればそのまま中国語である。動詞としては使わないようだが…。


有耶無耶 ウヤムヤ

あるのかないのかわからない。元々「ありやなしや」=生きているのか死んでいるのかわからない という日本語の定型表現があり、それを漢語風に表現したものである。なお中国人はこの言葉を使わない。韓国には輸入?されている。유야무야として。


只管打坐 シカンタザ

只管も打坐も中国語の頻出語である。日本のように仏教的な意味合いはないらしいが、多分元々は中国の僧侶が使い始めた言葉だろうか?


起床 起立

〜させる という意味で、起を使うのがとても中国語っぽい。中国語の国歌にも起来とある。また、日本では床ゆか は通常屋内の地面を指すが、ここでは「ベッド」「寝室」の意味合いが含まれている。


主菜 副菜 

菜は中国語で料理を意味する(野菜も意味する)。不思議なのは、日本では主菜・副菜という言葉はあるのに、それが合わさると料理になる。猶、中国にも日本の「料理」という言葉が最近逆輸入されている。主に日本料理関係で使われている。


怎麼生 ソモサン

そもそもソモサンは、ダジャレみたいなったが、中国語の直輸入語である。〜シェンマ 。中国語を学び始めれば、君は何遍も聞くことになる。什么。


這般 シャハン

「這般の事情」の定型表現でよく用いられる。這(这)は中国語で「これ」の意であり、当然頻出単語である。


一張羅

量詞・助数詞で「張」を使うのが中国語っぽいなと思う。しかし、中国では服の数え方は枚らしい。どういうことや……。


走狗

犬を狗と言うのがとてもとても中国語っぽい。おそらく中国語からある時代に直輸入した単語だろう。


没 ボツ

元々は没書を略したものらしい。「ダメ」という意味で没を使うのがめっちゃ中国語っぽい。日本語では通常、没は沈むという意味である。


紅茶

赤いの意味で紅の字を使うのが中国語っぽい

 

禁句

文の意で句を使うのが中国語っぽい

 

 

アニメ(オタク)亡国論

絵も描けないし、彫像を作れるわけでもないが、私は美大出身である。ご存知の方は少ないかも知れないが、美大はアニメオタクの巣窟だ。

 

声優学校の次くらいにアニオタが跳梁跋扈している環境だと断言する。

 

ここで勘違いされないように注をつけるが、自分は「漫画オタク」に対しては何も反対しないし、むしろ好ましい印象を抱いている。

 

アニメオタクに対しては、その逆で、まあまあ軽蔑している。

 

今回は、なぜ私がアニメオタクを軽蔑しているか理由を説明する。

1.関西人のくせに関西弁を喋らない

関西地域において、関西弁を喋らない人間は軽蔑の対象となる。他地域からの転校生・就学者は、関西弁を必死のパッチで習得しなければ、生存競争から脱落する。

 

しかし、関西のアニメオタクは関西弁アビリティを備えているのにも関わらず、自主的にそれを返納している。

 

これにより関西のアニメオタクは「標準語なのか関西弁なのかよく分からないキマイラ言語」を話すことになり、結果的に孤立していく。

 

そして、「いじめられている」との被害妄想を抱くようになる。

 

それは違う。あなたがたは自ら茨の道を選択したのだ。これはSMクラブでMを選択しておきながら、プレイ後警察に「暴行された」と報告するようなものだ。

 

ともあれ、関西弁を話しているいないに関わらず、アニメオタクはいじめられる。

2.発言にフィルターをかけない

美大生時代、アニメオタクがアニメ内のキャラクターの発言のマネ・引用をして、仲間内で盛り上がっている光景を繰り返し見た。

 

その度にいつ、我が子のホームビデオを見て盛り上がる親みたいだなと思う。

 

楽しんでるのは身内中の身内だけで、それが仲間内の外に理解されることはない。

 

その営み自体を私は否定しない。

 

あなたがたアニメオタクによく認識してもらいたいのは、本当は君たち自身もそんなにアニメ内のセリフ引用を面白いとは思っていないことだ。

 

あなた方は笑っているが、ほんとうには笑っていない。愛想笑い・礼儀としての笑いをしていることに、いい加減気付いて欲しい。

3.コミュ力が下がる

バキなどの例外はあるが、アニメではそれまで運動などしたことがないような少年が、世界の危機に立ち向かったりする。

 

もうこの時点でコミュ力はだいぶん低いのだが、それよりも問題視すべきなのは、アニメキャラの話し方だ。

 

銀魂を代表例として挙げられるが、アニメキャラは面白くもない長台詞のまくし立て、その応酬を頻繁に行う。

 

アニメ内だけに留まるのならまだ良い。なぜなら、アニメとは演劇であり、限られたリソースで情報を聴衆に伝えたいと思えば、誇張して演技するしか方法がないからだ。

 

しかし、日常(あのアニメではない)は舞台でもないしアニメでもない。アニメオタクは例外なく早口で口数が多いが、これは彼らがニュアンスや文脈などのコードを失ってしまったためだ。

 

結果的にアニオタは孤立するようになる。そしてそれに値することを彼らはした。

4.現実とアニメの区別がつかなくなる

暴力ゲームが暴力行為を引き起こすとは思わない。自分が強くなったような気が一時間くらい継続はするだろうが。

 

しかし、アニメを見る行為は、確実に人格に悪なる影響を及ぼす。理由を説明する。

 

ゲームをする人間は、それがゲームであることを知っている。ゲーム画面に映し出されるのは、あくまでもゲームグラフィックだからだ。どれだけ高画質のゲームだろうと、現実世界よりも高画質なわけではない。

 

しかし、アニメオタクは「これはアニメ内の、存在しない世界の出来事なんだ」ということを認識できない。

 

なぜなら、彼らは孤立しているからである。

 

「私は孤立していない。友達はいる」と反論があるかも知れない。だが、アニメオタクは常人のコミュニケーション方法を喪失しており、アニメオタクの友達になれるのは、同じアニメオタクか、アニメオタクではなくとも、常人のコミュニケーション能力をなんらかの理由で失ってしまっている方だけだ。

 

想像して欲しいのだが、「私はおかしくない。同じ考えを持っている人が周りにたくさんいる」と、イスラム国やオウム真理教連合赤軍の方々が主張したとして、それに耳を傾ける必要はあるだろうか?

 

狂気とは、個人においては稀かも知れないが、集団においては珍しくないと、かの哲学者ニーチェも喝破している。

5.アニメは犯罪行為を助長する

宮崎勤は、4人の女児を誘拐監禁し殺害した。

宮崎勤はアニメオタクである。

よって、アニメオタクは犯罪者である。

まとめ

厳しいことを書いたが、私はアニメオタクの皆さんを心配しており、親心のようなものからこの檄文を書いた。

どんな聖人であっても、人生に一度は間違いをおかす。私はアニメオタクの皆さんに、真人間に戻って欲しいのだ。

 

それと、ツイッターアニメアイコンにしているアカウントを頻繁に見かけるが、彼らは例外なくロクな死に方をしない。それだけは断言する。

予感と確信と「勘」について

本の冒頭を読んだとき、「この本は面白そうだな」と思う。その直感が外れたこともあるが、大体は当たる。原因の検討はついていて、小説にしろ解説書にしろ、本の冒頭はその本の方向性と内容を示唆する部分であるからだ。

予感と確信

ボケを思いついたとき、お笑い芸人のよく言う「フィルターを通す」作業をする。瞬間的に、感覚的に、「このボケはウケるか」どうか吟味してから、発信している。

(悪口だが、アニメオタクの連中がこの『フィルターを通す』作業をせず、くそしょうもない発言で無理やり盛り上がってる場面を何度も目撃した)

 

このフィルターを通す作業があるのとないのとで、ウケる確率は断然違う。遥かに上る。もちろん渾身の練ったボケがすべることもある。

 

このフィルターを通す作業は、スポーツ時にどう体を動かすか”考える”作業と同じく、身体的に行われている。頭の中に(擬似的な)数式が思い浮かんでいるわけではない。

(”ゾーンに入る”状態を一度体験したことがあるが、あれは本当に勝手に体が動く。身体が自律化する感覚だ)

 

スポーツの動きは、生来のものではない。赤ちゃんは、口に入ったものを吸う習性があるが、ボールをコートのリングの輪っかに通そうとは発想しない。つまり、スポーツにおける動きは経験的なもの、後に人間が獲得したものである。



「理論体系」あるいはパラダイムと言ってもいいかも知れないが、我々の思考にはまず「前提=蝶番」があり、そこから理論は展開していく。

 

人間の言語は魔法のようには作用せず、一つの意味を表すために、いくつもの文章を要する。意味(語義)は、ほとんど無限に遡及できるかのような意味から成り立っている。

 

そして、我々は喋るたびにそんな「ほぼ無限」の世界に潜っているわけではなく、少なくとも「雑談」は、もっと曖昧模糊とした、矛盾とナンセンスに満ちたものだ。

 

「意味の生成」とは、あくまでも仮想的なモデルであり、物質的な作用に裏付けられているわけではない(少なくとも、現代の科学は「意味」の裏に潜む「意味物質」を発見していない)



ディベートの勝ち負けを決めるのは、審判だ。正式には、競技(?)ディベートだが。

ラップバトルなら、審査員あるいは観客が決めるが、「朝まで生テレビ!」は、別に田原総一朗が勝ち負けを決めているわけではない。

 

アメリカの大統領候補がやる「テレビ討論会」は、どれくらいの影響を実際の選挙結果に及ぼしているのだろう?仮に、壇上にのぼった大統領候補者が「私が大統領になったあかつきには、アメリカ人を皆殺しにします」と発言したとして、そいつが大統領になる未来はあり得るのか?(ないだろう。物理的には存在しうるとしても)

 

しかし、ヒラリーはトランプとの討論会において、常に優勢をキープし続けていたにも関わらず、選挙結果の蓋を開けてみれば、トランプが微差で勝利している。



ディベートに負けた」屈辱は、負かした相手に恨まれる動機になり得る。説得したければ、理詰めで相手を追い込むことは得策ではない。

(仮に、あなたにうらみを抱いている”怨霊”(字義通り)と相対したとして、あなたは何をしますか?とりあえず逃げるでしょう)

 

「絶対に予言を外す占い師」と「絶対に予言を当てる占い師」に、違いはあるだろうか?



「議論」「討論」「ディベート」のワード群よりは、「パフォーマンス・アートの相互披露」の方が、正直しっくり来る。

 

「絶対にディベートに勝つ方法」があったとして、それを二人とも使ったら?……

…『「絶対にディベートに勝つ方法」は存在するが、それは世界で一人しか使えない』

 

言語・言説は、真似できる。模倣できる。剽窃できる。仮に、この世界に「救世主」「再臨のメシア」を名乗るものが二人現れたとして、どちらを信用すれば良いのだろう?

(牧師さん・神父さんはきっと「神に祈りなさい」と答える)



中国語(人)の部屋なる思考実験があるが、言語の上ではコミュニケーションが成り立っていたとしても、なりっているように見えたとしても、実は成立していない事態がありうる。中国語の部屋は「外部」の人間にとっては、普通の会話と変わらない。

(関連:スワンプマン

 

我々は意識していない…だろうが、「目の前にいる人間は、哲学的ゾンビではない」ことを前提に会話をしている。もし、「私以外の人間は、全て哲学的ゾンビである」と信じてる者がいたとして、そいつはまだ「羞恥心」を感じるだろうか?

 

道具も何もなしに、空を飛んだ人間の話を聞いたことが皆さんおありだろうか?私はない。しかし、「俺は空を飛べる」とビルの屋上から手ぶらで飛び降りた人間は、少なくとも一人はいる。

あの世で「なんでお前は空を飛べると思って、ビルから飛び降りたんだ??なんでそんなことをしたんだ?」と誰かに聞かれた際「だって空を飛べると思ったから」と本気で答えた者がいたとして、そいつは「自殺」をしたわけではなく、「事故死」?

(ブレーキをちゃんと踏んだのに、ブレーキが壊れていて作動せず、結果壁に激突して死ねば「事故死」だろう)

無意識よ、ありがとう

 

つまりは、そういうことだ。

(暗黒微笑)

 

思うに、無意識の主たる機能として、「意識が無再現に想定しうる選択肢を、フィルターをかけて削減する」ことが挙げられるだろう。

 

「勘」がはたらいたとき、「根拠がない」と切り捨てるのではなく、真摯に耳を傾ける必要がある。

【試論】剽窃がダメな理由

人間の知識範囲、覚えていられる範囲、記憶には限界があり、有限である限り、集団であっても同じことだ。

オリジナリティは、「独自性」と日本語に訳せるだろうが、独自性があるということは、「既存のものと似ていない」、「新しい」ことを意味する。


本当に新しいものなんかもうないと言う人は多いし、3世紀までには本当に大切なことはみんな書かれたという人もいる。

しかし、ほんとうに新しいかどうか、ほんとうに「ほんとうに大切」であるかどうかは、主体が、個々人、有限の集団によって決まる。

オリジナリティの演出方法
どんな革新的に見える作品でも、類似作品、類似したアイディアに基づいた作品は必ずある。ロールシャッハ・テストをすれば、何かしらの絵柄が見えてくるのと同様に。


しかし、特定のコンテクストで独自性があると見られ、また別の特定のコンテクストでは独自性を認められないというのはありえる。


たとえば、全く人的・資源的・文化的交流をもたない集団Aと集団Bがあったとして、集団Aでは「保守的」である作品も、集団Bにもっていった途端「独自的」あるいは「革新的」だと認められることは想像できる。

 

オリジナルであることが、そんなにエラいのだろうか?
「人を殺してはいけない」というのは、フィジカルに、心情面で「わかる」。

「それはいけないことだ」と頭ごなしで言われても受け入れられるし、私の内面からも同じ結論が出る。


しかし、剽窃がなぜダメなのかと心情に問うてみても、声が返ってこない。理由もよくわからないし、心情的な、訴えかけるような、良心の呵責を起こさせるような気持ちが湧き上がらない。


引用と剽窃は違い、出典元を明らかにすれば引用である。もちろん、大学生の論文とかだと、あまりに量が過多であれば避難される。しかし、それはモラルからの非難ではなく、大学側には、卒業論文提出者が学位認定に相応しい人物かどうか見極める作業が必要なためである。


インターネットの世界で、キュレーションメディアなるものが隆盛しているが、商業出版物をあのようにキュレートしてしまえば、それは適切な「引用」の範囲は超える。キュレーションメディアは、「報道の権利」と「引用の権利」の上でフラつきながら成立している。


数学の公式を最初に見つけた人のエラさ


Googleで「パクリ」だとか「剽窃」を検索ワードに設定して色々調べて見たら、関西大学経済学会が出している論文を見つけた。こちらには、剽窃がなぜいけないかという問いに対して


「研究者の仕事とは、専門領域で新しい貢献をすることであり、研究者の社会では『最初にそれを考えたこと・見つけたこと』が大事だから」(同論文の5/12ページ冒頭。表現を一部変更)


とあった。

つまり、研究者にとって剽窃がいけないのは「最初にそれを考えた・見つけた」ことが大事だからということらしい。となれば、「最初にそれを考えた・見つけた」ことが全く重視されない論理空間なら、剽窃は問題視されない。


(料理のレシピは、著作権によって保護されないと聞いて、なんとも言えない気持ちになった)


剽窃がダメな理由はいまいちピンと来ていないが、「数学の証明を最初に見つけた人」がエラいというのは直感的に感じる。


別の人が書いた数学の証明を、自分が見つけたと主張することは、モラルに反していると直感的に「分かる」。


「他人が受け取るべきもの(=名誉)を、偽ることによって受け取る」

 

これは、”恥ずべきこと”だ。盗みと一緒である。今あるものを盗んでいるのではないが、未来に受け取るはずのものだったものを盗んでしまっている。


(しかし、なぜモノを盗んではならないのか「これです」と言える理由が今の自分にはない。いつか答えを出します)

 

はじめて「それ」を見つけた人に与えられるべき名誉


平和賞と文学賞は違うが、科学的に重大な発見をした人に与えられる賞がノーベル賞だ。つまり、「科学的な発見」にも、重大さの多寡が存在することも示している。


「科学技術は、『人類が単純労働から開放されること・寿命が伸びること・より健康を維持しやすくなること・特定集団の飢餓問題解決……etc』が可能である。それらを科学がもたらすのは『良い』ものだと、現代では一般的に見なされており、科学的発見はそれに貢献・寄与するので、新たな科学的な発見は称賛される」


数学に関しても、恐らくは同様のことが言えるだろう。

一般市民は、芸術分野における新規性に興味などないのではないか?
しかし、芸術分野における新規性は、いったい何に貢献しているのか。新たな娯楽の可能性?

「この手法・このスタイル・このやり方・この音の出し方……est」は、誰が最初に見つけたのか/編み出しのか?

そんなことを考えるのは、批評家あるいは芸術家だ。


「芸術分野において、なぜ批評家は新規性を称賛するのか/名誉を与えようとするのか/高い評価を与えようとするのか」


この問いに関しては、現在の私の力量では答えられそうもないが、いずれ論ぜねばならぬだろう。

ロラン・バルトの詩の定義

詩というのは、ロラン・バルト曰く、単に散文の短いもの、あるいは韻律が考慮されているものであった。内容はとにもかくにも、ルール・様式にさえ従っていれば詩だったのである。古代においては。

 

バルトはフランス人なので、彼の念頭にあったのはおそらくギリシャ古典の詩などであろうが、中国や日本でも同様であると言える。

 

また、古典的な詩のシーンにおいては、詩における「愛」や「夢」は、その当時市政の人々がいう「愛」あるいは「夢」と変わりがなく、百科全書的である。あるいは、「一つのことを言うためには、一つのことで十分である」信念のもと詩作が行われている。

 

また古典時代においては「芸術」なる概念も、今日現代人が抱いている抽象的な価値や美を追求する営みだともみなされておらず、文章上の技巧や屈曲さえあればそれは芸術作品なのであった。

(感受性の結実・発露ではなかった)

 

二人の男がステージの袖から出ていって、なんとなくしゃべればそれは形式上・ガワの上では漫才かも知れないが、漫才とは到底言えない。それが現代人の言葉の使い方だ。

 

バルトはランボーから始まる近代詩(現代詩)と、古典的な詩と全く別個のものとして規定する。バルトが詩として念頭においたのは、転倒した散文だ。

 

思惟があり、それを表現・市井の人に伝達するための文ではなく、詩とは語(モ)が観念(イデー)を形成していくものである。もちろん優れたものやそうでないものはあるだろうが、内容における形式だけに準拠すればそうなる。

 

語られるもの、書かれるものというのは、通常報道的である。なにか情報があり、それを伝えるために語られる。和歌や古典時代の詩はそうではないが、これらは韻律や形式など言葉の自由さを制限した上で表現されるコンテンツである。

 

試作という営みを、暗示的・象徴的に事物を表現したものと見なすことも不毛ではないが、それらはバルトにとって古典時代の詩の延長線上にある(散文に表現上の規制が加わったもの)ものだ。

 

言葉とはコミュニケーションの手段であり、流通あるいは報道、小説ならばプロット・ストーリーを運ぶための道具として用いられるのだが、そうではなく、客体として屹立する語(モ)を編む営み、それが詩だ。読者や著者の抹消を理想的には達成していなければならないとバルトは喝破している。

 

私見による解釈だが、バルトにとって詩とは言語による(抽象的な理念における)絶対音楽の希求・追求なのだろう。

Raw Athleticism という概念

NBAプレイヤーであるジェームズ・ハーデンの発言。「俺はどのようにバスケをするか、スキルを学ぶ必要があった。俺も身長が7フィートあればよかった。走ってダンクをする。それにスキルはいらない」。(出典はこちら)


ハーデンは名前を出してはいないが、”走ってダンクをする”男はヤニス・アデトクンボを指していることは明らかである。7フィート(約213cm)には足りないが、211cmもあるギリシャの巨人。背が高いだけならまだしも、身体能力もズバ抜けている。


2021年のNBAシーズンを優勝したのは、このギリシャの超人を擁するミルウォーキー・バックスで、ハーデンは早々にプレイオフ争いから脱落している。バスケットボールはチームスポーツであるため、チームの成績を一人に背負わせることは不適当だが、「走ってダンクをするだけの男」がリングを手にしているのは確かである。

 

ハーデンのみならず少なからぬNBAファンは、ヤニスにはスキルがない=No Skill と認識している。流石にNo Skillは言い過ぎだとしても、「least skilled MVP」(MVPを獲得した選手中もっともスキルがない)とはよく言われている。

(ヤニスのユーロステップは見事である)


だが、いわゆる”スキル”と身体能力を分けて考えることは難しい。私は、80代の人物がメジャースポーツのプロシーンで活躍できるだろうとは信じない。スキル=技術を再現するには筋力が必要だからである。

Raw Athleticism という概念
アメリカのスポーツファン間で用いられるRaw Athleticism なる概念は興味深い。直訳すれば「生の身体能力」になる。


スポーツ、または何らかの身体操作を「技術」抜きに語ることはできない。もっともシンプルな競技である短距離走でさえもスキルは大いに影響する。ブラジリアン柔術ほど「スキル」は影響しないだろうが、それでもゼロではない。


Raw Athleticism なる概念は民間で自然発生したものであり、ゆえに明確な定義は存在しないが、使われ方・用いられ方としては、「パフォーマンス(成績)からスキルを引いたもの」がもっとも近いだろう。Athleticism =身体能力とほぼ同義だが、Raw Athleticism のRawは、”身体能力”をスキルを抜きに抽出することはできないことが強調・含意されている。

身体能力の定義と概念
台湾のある男が、米粒にポートレイトを描いてそれを販売している。並大抵の器用さではない。生涯これを練習したとしたとしても、この精密さで作業できるかどうかわからない。才能・素質が必要だろう。


一般的な身体能力=Athleticismの範疇・概念には含まれないだろうが、器用さだって素質・才能は各人で異なるのだから、身体能力に含めて考えてもそれほどおかしくはない。


スポーツにおける技術=スキルとは何だろうかと考えだしても明確に定義のようなものを私は提出できないが、いわゆるスキルにおいても才能・天稟は作用する。ヨーイドンで同じ環境で同じ練習をしても差はつく。


思うに、スキルの要素として「習得に反復練習・長期間の期間を要する身体操作」であることが抜き出せる。また、「瞬発力や膂力にあまり頼らない身体操作」であるとも表現できる。


どんな”スキル”であっても身体能力に依存しない技術はないと信じているが、ゴルフなどのように比較的年齢を重ねても活躍できる種目はスポーツの技術的側面が強調されやすい。


逆に、アメリカンフットボールのような、十年練習してきた細身の選手よりも、昨日アメフトを始めた188cm100kgの筋肉ダルマがより活躍する可能性の高い競技においては、身体能力面が強調されやすい。


NBANFLには、十五歳や十八歳でスポーツを始めてトップクラスになった選手が少なくない。MLBにおいても十五歳から野球を始めた選手が二名いるが、1000人近くメジャーリーガーがいるうちの二名である)