考察するヒソト

元々ワードプレスでやっていました。執筆に集中したいので移行。色々考えます。

【試論】剽窃がダメな理由

人間の知識範囲、覚えていられる範囲、記憶には限界があり、有限である限り、集団であっても同じことだ。

オリジナリティは、「独自性」と日本語に訳せるだろうが、独自性があるということは、「既存のものと似ていない」、「新しい」ことを意味する。


本当に新しいものなんかもうないと言う人は多いし、3世紀までには本当に大切なことはみんな書かれたという人もいる。

しかし、ほんとうに新しいかどうか、ほんとうに「ほんとうに大切」であるかどうかは、主体が、個々人、有限の集団によって決まる。

オリジナリティの演出方法
どんな革新的に見える作品でも、類似作品、類似したアイディアに基づいた作品は必ずある。ロールシャッハ・テストをすれば、何かしらの絵柄が見えてくるのと同様に。


しかし、特定のコンテクストで独自性があると見られ、また別の特定のコンテクストでは独自性を認められないというのはありえる。


たとえば、全く人的・資源的・文化的交流をもたない集団Aと集団Bがあったとして、集団Aでは「保守的」である作品も、集団Bにもっていった途端「独自的」あるいは「革新的」だと認められることは想像できる。

 

オリジナルであることが、そんなにエラいのだろうか?
「人を殺してはいけない」というのは、フィジカルに、心情面で「わかる」。

「それはいけないことだ」と頭ごなしで言われても受け入れられるし、私の内面からも同じ結論が出る。


しかし、剽窃がなぜダメなのかと心情に問うてみても、声が返ってこない。理由もよくわからないし、心情的な、訴えかけるような、良心の呵責を起こさせるような気持ちが湧き上がらない。


引用と剽窃は違い、出典元を明らかにすれば引用である。もちろん、大学生の論文とかだと、あまりに量が過多であれば避難される。しかし、それはモラルからの非難ではなく、大学側には、卒業論文提出者が学位認定に相応しい人物かどうか見極める作業が必要なためである。


インターネットの世界で、キュレーションメディアなるものが隆盛しているが、商業出版物をあのようにキュレートしてしまえば、それは適切な「引用」の範囲は超える。キュレーションメディアは、「報道の権利」と「引用の権利」の上でフラつきながら成立している。


数学の公式を最初に見つけた人のエラさ


Googleで「パクリ」だとか「剽窃」を検索ワードに設定して色々調べて見たら、関西大学経済学会が出している論文を見つけた。こちらには、剽窃がなぜいけないかという問いに対して


「研究者の仕事とは、専門領域で新しい貢献をすることであり、研究者の社会では『最初にそれを考えたこと・見つけたこと』が大事だから」(同論文の5/12ページ冒頭。表現を一部変更)


とあった。

つまり、研究者にとって剽窃がいけないのは「最初にそれを考えた・見つけた」ことが大事だからということらしい。となれば、「最初にそれを考えた・見つけた」ことが全く重視されない論理空間なら、剽窃は問題視されない。


(料理のレシピは、著作権によって保護されないと聞いて、なんとも言えない気持ちになった)


剽窃がダメな理由はいまいちピンと来ていないが、「数学の証明を最初に見つけた人」がエラいというのは直感的に感じる。


別の人が書いた数学の証明を、自分が見つけたと主張することは、モラルに反していると直感的に「分かる」。


「他人が受け取るべきもの(=名誉)を、偽ることによって受け取る」

 

これは、”恥ずべきこと”だ。盗みと一緒である。今あるものを盗んでいるのではないが、未来に受け取るはずのものだったものを盗んでしまっている。


(しかし、なぜモノを盗んではならないのか「これです」と言える理由が今の自分にはない。いつか答えを出します)

 

はじめて「それ」を見つけた人に与えられるべき名誉


平和賞と文学賞は違うが、科学的に重大な発見をした人に与えられる賞がノーベル賞だ。つまり、「科学的な発見」にも、重大さの多寡が存在することも示している。


「科学技術は、『人類が単純労働から開放されること・寿命が伸びること・より健康を維持しやすくなること・特定集団の飢餓問題解決……etc』が可能である。それらを科学がもたらすのは『良い』ものだと、現代では一般的に見なされており、科学的発見はそれに貢献・寄与するので、新たな科学的な発見は称賛される」


数学に関しても、恐らくは同様のことが言えるだろう。

一般市民は、芸術分野における新規性に興味などないのではないか?
しかし、芸術分野における新規性は、いったい何に貢献しているのか。新たな娯楽の可能性?

「この手法・このスタイル・このやり方・この音の出し方……est」は、誰が最初に見つけたのか/編み出しのか?

そんなことを考えるのは、批評家あるいは芸術家だ。


「芸術分野において、なぜ批評家は新規性を称賛するのか/名誉を与えようとするのか/高い評価を与えようとするのか」


この問いに関しては、現在の私の力量では答えられそうもないが、いずれ論ぜねばならぬだろう。