考察するヒソト

元々ワードプレスでやっていました。執筆に集中したいので移行。色々考えます。

東京の分離独立を支持する

東京は名実ともに日本一の都市である。首都である。「TOKYO」ブランドは世界に通用する。

 

今はまだ播種の状態ではあるが、いつか花咲くとき、東京が日本から分離独立して世界に煌々と輝くときが、すでに煌々と輝いているが、もっと煌々と輝く日が来ることを夢見て、この記事をお届けする。

地方はお荷物である

地方交付税という名で、都民の血税が自立できない他府県に流れている。汗水垂らして収めた税金が、収めた地域に還元されず、どこか遠い地方でネットカジノ代に消えたりしている。

 

地方民どもは東京の搾取を指摘するが、若者にとって魅力ある都市を作れなかったのは田舎の連中の責任である。チャンスは死ぬほど与えた。

 

地方人どもは、切り捨てに値する。

東京は中心である

東京は中心である。出版・メディア・エンタメ・ビジネス。東京には無いものがない。

 

地方は東京なしではいられないが、地方は東京なしでは生きられない。東京が独立国でないのは、歴史という名の足枷に囚われているからにすぎぬ。

 

確かに、電力供給や食料自給率など東京だけでは賄えないものもあるが、送電を他国に依頼する携帯は中央アジアなどでは普通である。買えば良い。福島が駄賃に文句を言ってきたら神奈川に切り替え、神奈川が文句を言ってきたら山梨なり静岡なりに頼めば良い。

まとめ

東京の分離独立は、いつまでも地方交付税におんぶに抱っこの地方人どもに対する天誅である。若者が住みたくなるような街を作れなかったのが悪いのだ。ブルガリアなどは、各ヨーロッパ諸国のための人材供給国となっている。EUには地方交付税がない。

 

東京を分離独立させるべきだと説いたが、最終的には日本の各都道府県に独立国(並みの権限)を与えるべきだと思っている。

 

日本をヨーロッパ連合のような国・共和国にすべきだ。

 

大東京神東京は、分離独立で煌々と輝くだろう。太陽=ネオンサインの沈まない国、超東京。

中距離走は最強の護身術

中距離走は最強の護身術である。次点で長距離走短距離走は市街地なら有効かもしれない。さすがに、200m走ってばててしまうと追跡者にやられる可能性がある。

 

なお、中距離走の定義は800mから3000mの距離の競走である。

(正直3000も要らない)

 

長距離走の走法は少し悠長すぎる。短距離走の走法は逃げ切るには少々心もとない。中距離走なら完璧だ。街で喧嘩を打ってくるような奴は基本鍛錬も何もしていない運動不足のチンピラなので、体力勝ちできる。

なぜ中距離走は最強か 

街で突発的に喧嘩に遭遇したとして、あなたが勝ったとする。逮捕されるのかされないのかは分からないが、間違いなく事情聴取はされる。場合によっては逮捕される。

 

上記の話はあなたが勝った場合である。

 

負けたら? 最悪死ぬ。死にはしないにしても、ボコボコにされる。病院に行かねばならない。勝っても負けても得しないのだ。

 

その点、逃げれば万事解決する。逮捕もされない。病院に行く必要もない。

まとめ 助けることはできなくとも

中距離走をいくら極めても、街中で襲われている姫君を助けることはできない。それは、仕方ない。なぜなら「護身術」が想定している「護身」は自分の身であって、他人ではないからだ。一休さんのトンチみたいだが。

「深掘り」なる言葉を私が嫌う理由

昨今、社会人が頻繁に発する「深掘り」(ふかぼり)という言葉。私は嫌いである。

 

なぜ嫌いなのか自己分析してみた。沸々と内面に湧く「嫌い」の感情の源泉がよく分からなかったからだ。

1.既に、掘り下げるという言葉がある

「腹落ち」「腹に落ちる」も私の嫌いな言葉である。既に「腑に落ちる」という言葉があるのに、わざわざ新しい言い方をなぜ創出する?

 

……普段あまり意識しないが、私は教養主義者なのだろう。しかし、「腑に落ちる」の「腑=内臓」は一般的な語ではないため、まだ自分を納得させられるが、「下げる」は日常語彙である。

 

複合動詞という日本語の特質を損なってどうするのだろう。おそらく、「掘り下げ」は名詞(連用形)として少し使いづらいのだ。「下げる」は評判を意図して落とすという意味も含有している。

2.アホが使いがちな言葉である

表面に見える情報以上(以下?)のモノに言及したり説明するとき、「深掘り」していると、その言葉を使う人は思っている。あるいはそう宣伝している。

 

しかし、情報や性質、実相は多角的であり、「浅い/深い」ではない。……ある種の人々が使う「深い」も私は嫌いだ。情報は深度ではない。

 

また、ビジネス界隈やインフルエンサーが好んで使う言葉であることも、私の「深掘り」に対する嫌悪感の一因になっている可能性がある。同様に「自己実現」も嫌いだ。

まとめ

つらつらと記述したが、結局のところ私は(大抵の)新語が嫌いである。若輩ゆえ「老害」認定はされないが、あと十年もすれば「老害の言動」に分類されるかもしれない。

「沼る」は差別用語だろうか

沼る(ビデオゲームなどで膠着状態に陥ること)は差別用語ではないが、沼プレイは差別用語である。あるいは際どい…”唖然”くらいは。


沼る は、沼にはまる あるいは 泥濘(ぬかるみ)にはまる など、足が取られて動けないことを指す慣用表現が動詞化したものと解釈できる。


沼プレイ……例えば、遅々として進まないプレイを沼プレイと呼称するなら上述の「沼にはまる」系統の言葉だと受けとめることが可能だが、そうではなく、阿保莫迦なプレイに対して用いられる語であるため、沼プレイの沼の起源・転移は「知的障害者→知障→池沼→沼(ぬま)」であると考えるよりほかない。そうとしか考えられない。


因って、沼プレイは公的には使用すべき語ではないと結論付けられる。


沼る・沼ったは可であろう(つまり、存在ではなく動作としてなら問題ない)。

硬性聖典と軟性聖典

憲法における硬性・軟性という操作概念は、宗教にも応用できる。

 

セクト・カルトと認定される宗派があろうと、その宗派が、あるいは教祖があくまでも「私の解釈である」と主張していれば、その宗派はドラスティックに教条を変えることができる。

 

問題は、聖典である。テクストが不可侵であればあるほど、そう考えられているほど、軌道修正・穏健化が難しい。なぜならばそれは聖典だからである。勿論これは同語反復だが、「不可侵であるが故に不可侵である」というのは、体感でわかって頂けると思う。

 

例えば、教祖が「私は神(或いは、阿弥陀・イエスキリスト」の声を聞いたと語った場合、そのテクストの否定はつまり「それは神の声ではなかった」ことになる。

 

該当テクストが神の声を反映したものであると信じて生きてきたのに、そうではないのならそれまでの生き方を全否定することになる。

 

「(教祖)は素晴らしい教えをたくさんのこしたが、ここは間違えている」「このテクストは方便あるいは時勢に合わせて発されているだけで、恒久不変のものではない」

 

そう捉えられる・捉えうるテクストは、「軟性聖典」と呼称できるだろう。憲法のように改正に国民投票の何分の一以上必要なのかとか、そもそも議会だけで改正できるのかなど客観的には記述できないが、どの聖典も同じ強度であるわけはない。イスラム教はハディースは軽視あるいは無視すらできるが、コーランはそうできない。

“天然”工作員、あるいは自然農法から採れる工作員

工作員というと、十代二十代のころに政府からみっちり思想教育を受け、外国で諜報活動やら宣伝弘報活動をさせる……といった先入観が日本にはある。日本にはあるというより、世界でもそう認識されている。


プーチンが嘗て所属していたKGBは、我々が想像する工作員(≒スパイ)である。プーチンの場合はスカウトでKGBに入隊した。そして、後に政治家に転身する。


ここで問題・危険性が発生する。工作員の活動が摘発された場合、今までどんな教育・指示を受けてきたか白状する可能性があることだ。


そうなれば国家間の関係悪化は避けられない。国家の機密情報、国内の企業情報を抜き出そうとする人員を組織的に育成している他国は、やはり自国民から好ましくは思われない。


……珍妙に聞こえるかも知れないが、いわゆる工作員たちが、工作員の自覚なく工作員活動をさせれば”発覚”のリスクは除去できる。

インフルエンサー時代の工作員養成
YouTubeに、タイ語やタイの文化を日本人向けに発信しているチャンネルがある。彼らの名誉のためにチャンネル名は控えるが、彼らは実質的に工作員として機能している。


ここで私がいう工作員とは、国家の印象を向上・改善させる働きが生じる諸活動を行う者らを指す。自国の情報を海外に向けて発信するだけなら、それは単なる趣味または経済活動であるが、たとえば国家Aがこれらのインフルエンサーらを表彰するなどすれば、無意識にせよ意識的にせよ、インフルエンサーらは国家Aの暗黒面は政治批判はしにくくなるのだ。その表彰に金銭授与が介在すればなおさら。


いわば工作員の育成ではなく、工作員への誘導である。


この方式では、たとえば国家機密の入手や企業情報の漏洩などは期待できないが、「Cool Japan」の目指しているものは輔助・支援できる。


仮にこのタイ政府がやっている表彰活動を中国政府などがすれば、そのインフルエンサーは例外なく工作員認定されるだろう。少し可哀想だなと思う。


構造としては、総会屋2.0と言われた山本一郎に金銭などを供与し、批判をさせない対策と似ている。但し、機構が反対である。批判を封じるのではなく、宣伝をさせる。

かまいたちはYouTubeでステマをしていないだろうが

お笑い芸人のかまいたちYouTubeチャンネルを見ていると、商品紹介だとか地域の名産品特集だとか、あたかもステマステルス・マーケティング)をしているかのような動画で溢れている。

 

しかし、かまいたちステマをしている可能性はほぼない。数年前にオークションサイトや洗剤のステマが問題視された過去があるし、宮迫博之を発端とする闇営業騒動があってまだ熱がある状況で、既にメディアへの露出が多く、地位を確立したかまいたちがわざわざステマに手を染めるとは考えにくい。もちろん、パートナー会社がこっそり裏金を受け取りステマを行なっている世界は存在しうるのだが、そこまでリスクを負うのは割に合わないだろう。吉本はそんなチームとかまいたちを組ませない。

 

かまいたちYouTubeチャンネルのステマ臭い動画群は、いずれ来たる企業案件(既にいくつか来ているが)・コマーシャルへのアピールである。それに、かまいたち主導ではなくYouTubeチャンネル運営スタッフ主導だろう。

 

インフォマーシャル化に侵食された地上波テレビへの出演アピールへのアピールにもなる。かまいたち主導ではなくとも、それくらいは彼らは分かっている。

かまいたちに思うこと

もう既に売れきっていて、マス(大衆)の支持も高く、収入も十二分にあり、それでもまだお金が欲しいのだろうか? 後輩芸人を経済的に助けるわけでもなく、趣味全開のチャンネルをするわけでもなく……。わたしは、かまいたちがよく理解できない。