考察するヒソト

元々ワードプレスでやっていました。執筆に集中したいので移行。色々考えます。

内面化された当て字

開口一番尾籠な話で申し訳ないが、金玉はもともと当て字であったらしい。だが、きんたまをGolden Ballと言い換えたりすることが多々あることからわかるように、日本人の内面に きんたま=金(gold)のたま と深く刻まれてしまっている。

 

そこは、矢鱈やたら と違うところだ。日本人の誰も やたら なる語を 矢と鱈に関連する語だと認識していない。

(ちなみに、やたら は八多羅拍子から来た雅楽用語で、和語や=八と、多羅・サンスクリット語の混種語である)

 

「油断」も和語「ゆたに」から説と、延暦寺の法灯説由来の説、二つ存在する。いずれにせよ、日本人は油と断(=たつ 断つ)の表意を内面化していることは確かである。

(逆に、所詮なる語を 栓じる所ところ と、語素分解して認識している人が少ないのは興味深い)

内面化されてしまえば、それは当て字ではない

面妖はもともと名誉だったそうだが、名誉からあまりに意味が変わってしまったため、面妖という漢字が当てられた。普段も不断から意味がずれ、漢字が変化した。

 

滅多に、あるいは滅多刺しもそうである。多を滅すると日本人は解釈してしまっている。不図も ふぅっと、のオノマトペ由来の語だが、図らずも の意で内面化されている。

 

語素分解され認識されてしまえば、それは当て字ではない。あるいは、音写語ではなくなる(独逸、亜米利加 等とは異なる)。

 

丁度 なる語が 丁ど から来ていようと、一度・二度 などの回数を数える「度」を、日本人はいやおうなしに無意識に想起する。また、当て字は字義≒意味を無視したものばかりではない。ふと=不図 などは、和語文脈と漢語文脈で意味が可なり一致している。

当て字が原義を侵食したケース

当て字「無駄」や「駄目」(こちらは当て字ではないが)「駄菓子」などの影響により、日本語に於いて「駄」は使い用がない、などの意が加えられた。いわゆる国訓。

 

その所為で、「駄馬」が人を運ぶ馬ではなくダメな馬と誤解されたりする。困ったものである。しかし、国訓はむしろ日本語の歴史を感じられるので、わたしは好きである。もちろん、漢字文化圏の人にとって、国訓は誤解の原因。学習難易度の上昇を意味するのだが……。